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円山ため小児科院長のコラム

舌の記憶 4「教育大時代の話」
 第一回共通一次テストを受け高校を卒業、北海道教育大学・札幌分校に入学しました。小学課程・心理学科です。校舎は当時札幌市中央区南22条西12丁目、今の「札幌市中央図書館」が建っている場所です。大学の校舎に隣接し、付属小学校・中学校の校舎もありました。現在両施設は、愛の里に移転しています。
 当時の教育大の校舎は数年後に移転が決まっていたこともあり、木造のボロボロ。エレベータもなければ、トイレも汲み取り式。廊下を歩くとぎしぎしと廊下のきしむ音がしました。日が暮れてから薄暗い校舎内を歩くのは、少々怖かった思い出があります。
 あまり学問に熱心ではなかった私は、授業を抜け出してよく近くの喫茶店に通いました。学生街でしたので、近隣には学生相手の喫茶店、中華屋、雀荘、パチンコ屋などが並んでいました。一番通ったのが「ファニー」です。電車通りと石山通りの交差点にありました。店は道路に面して二方向に窓があり、比較的大きめの店でした。そこで良く注文したのが「ナポリタンセット」です。コーヒー一杯が250円くらいの時代、「ナポリタンセット」は550円だったと思います。
 注文してから早いときは10分かからずに運ばれてきたので、業務用の半調理された麺だったのでしょう。麺も所々堅く、細く切ったタマネギ・ピーマン少々に、赤ウインナーがアクセントでした。申し訳程度にパセリの刻んだのが、パラパラ。ケチャップは酸味が少なく甘めの味付けで、粉チーズを多めに振り掛けて食べました。セットですので、ほとんど具の入っていないコンソメスープが一緒に出され、食後のコーヒーが付いてきました。
 今も時々無性に食べたくなって女房に作ってもらいますが、当時の味を再現することは、なかなかどうも難しいようです。今のナポリタンが、言葉を変えるなら“美味しすぎる”のだと思います。麺自体も本格的なものが手に入り、野菜や調味料も当時と比べると格段に美味しくなっているからでしょうね。俗に言うところの“B級の味わい”というのでしょうが、妙に今でも食べたくなります。

 校舎の南側の一角には、小さな飲み屋街がありました。焼鳥屋、居酒屋、スナックなどが軒を並べ、教育大の学生と職員、近くの陸上自衛隊札幌駐屯地の自衛隊員が主なお客でした。
 よく先輩に連れて行ってもらったお店が「きよた」です。カウンター席8席、小上がりのテーブル席が二つのこじんまりした居酒屋でした。九州出身の気風の良いおばちゃんが、ほとんど一人で切り盛りしていました。今と違ってサワーやハイボールなどはありませんでしたので、日本酒をひたすら飲むのが学生たちの常でした。その時によく食べたのが“特製餃子”です。
 餃子は皮も随分厚く、ニンニクとニラが多めに入っていてボリューム満点。醤油とラー油をタップリと浸み込ませ、熱々で食べるのが美味しかった記憶があります。おばちゃんが話に夢中になって、時々皮が黒くなって焦げ目が入るのもご愛敬。いつも先輩たちに奢ってもらっていたので、多少は遠慮がちに食べていました。一人前は確か6個だったような・・。高校を卒業したばかりの食べ盛りだったので、二人前くらいはペロリでした。胃袋も肝臓も若く、良く飲みよく食べました。
 美人の娘さんがいて、忙しいときは店に出ていました。料理とお酒を運んだり、洗い物など手伝ったりしていました。確か「とんこ」と呼ばれていて、常連客には人気があったようです。大学の先輩でも、何人かは好意を持っていたように感じました。
 もう40年近く前のお話です。街には「ガンダーラ」「いとしのエリー」が流れていました。

思い出のお店の話 美唄・釧路・函館・稚内・帯広編
 医師になったのが昭和62年4月ですから、すでに33年が経ちました。当時は今のような研修医制度がなく、ほとんどの新人医師は大学の医局に入りました。私は北海道大学の小児科に入局しました。大学病院での1年間の研修後、北海道各地の病院に勤務し、多くの経験をさせていただきました。その頃の、思い出に残る飲食店のお話です。

 美唄市立病院に、1年2か月勤務しました。時代は昭和から平成になった頃です。病院の正面玄関を出てすぐに「新鮮組(しんせんぐみ)」という、居酒屋がありました。確か市立病院の厨房で働いていたご主人が、夫婦二人で営んでいました。気さくなご主人と、美人の奥様でした。独身だったこともあり、勤務後にお気に入りの看護師さん数人で、良く飲みに出ました。奇をてらった料理ではなく、定番のメニューで美味しく頂きました。二次会は並びの「二十世紀(にじゅっせいき)」に、毎回流れました。俗にいう“パブ”らしき店で、広いフロアがあり、カラオケもありました。若気の至りで、ダンスも踊ったような記憶があります。
 釧路赤十字病院勤務時代は、「紀伸(きしん)」に通いました。病院がまだ共栄大通にあった頃です。店は病院の職員玄関からすぐの場所にありました。根室出身の凛とした物言いのご主人と、ほんわかとした雰囲気の若い奥様の二人でもてなしてくれました。カウンター席6人、小上がり席8席くらいのこぢんまりとしたお店でした。本格的な日本料理で、先附からお造り、煮物、焼き物と美味しいコース料理でした。ご主人が根室に思い入れがあり、「北の勝」を良く飲みました。お店の名前に由来は、確かご夫婦の名前の一字ずつを取って命名したと、聞いた記憶があります。
 函館中央病院勤務時代の思い出の店は、「かなざわ」です。湯の川電停前にありました。青森出身の明るくて気風の良いご主人と、日高地方(?)出身の人当たりの柔らかな奥様と二人で切り盛りされていました。予約しなければなかなか入れない、人気店でした。お刺身も美味しかったですが、一番記憶に残るのは“おいらんカレイ”です。30センチくらいの大きさの、身の厚いカレイですが、焼いて食べると絶品。白身の淡白な味の中にも凝縮した旨味があり、店にあれば必ず注文しました。日本酒もマニア向けの銘柄が多くあり、“田酒”を始めて飲んだのも、この店でした。湾岸戦争の頃でした。確かお兄さんが、札幌で同じようなお店を経営しているとの事でした。
 稚内市立病院勤務は、9月から4月までの半年間でした。市内の小児科医は、医長の先生と私の二人だけでしたので、拘束時間も長く忙しかった記憶があります。夕食がてら出かけたのが「南龍」です。宿舎の近くで、仕事帰りによく寄りました。焼き物中心の、炉端がある居酒屋でした。昔は札幌で寿司職人をしていた年配のご主人と、細身で都会的な奥様の店は、狭かったですが暖かな雰囲気でした。地元で獲れた魚を刺身で頂きました。ホッケの焼き物も身が厚く、美味しかったです。私の音楽好きが分かると、ご主人は古いポップスをカセットデッキで流してくれました。「南龍」は札幌で営んでいた寿司屋の名前を、そのまま使用していると話をしてくれました。風の強い街でした。
 大学病院での4年間の研究生活が終了し、赴任したのが帯広協会病院でした。地ビールブームが起き、帯広でも数社が醸造を始めた頃でした。仕事ではO−157の集団感染も経験しました。帯広には2年半居ましたが、水が美味しく、天候も良く、温泉も身近にあり、冬は寒いかったけれど暮らしやすい街でした。高校の同級生が建設会社の帯広支店に勤務していて、地元の美味しい店を随分紹介してもらいました。いくつも美味しいお店がありましたが、足繁く通ったのは2軒、「おかだ」「千代寿司」でした。
「おかだ」は通い始めた頃は、JR帯広駅近くにありました。いつも満員で、予約を取るのも大変でした。手狭になったこともあり、繁華街に移転しました。京都で修業してきたというご主人は繊細な仕事ぶりで、豪快な奥様とは良いコンビでした。牡蠣が名物で、私の好物でもありよく食べました。生も良かったですが、焼いた牡蠣も素敵に美味しく、記憶に残っています。当時1歳だった娘が、黒豆豆腐を大変気に入り、家族でも出かけました。お酒が大好きなご主人で、結果として命を縮めてしまいました。
 「千代寿司」も随分通いました。高級店ではありませんが、マグロに強い愛着を持つ明るいご主人と、笑顔が素敵な朗らかな奥様、時々は娘さんも店に出て手伝っていました。新潟の“黒帯”を一升瓶でボトルキープ。若かったのもあって、友人たちと一緒に結構飲んでいました。飲んだ締めに、色々な具が入ったスペシャル巻物を食べたのも懐かしいです。今は移転して、盛業中との情報です。「H’s Bar」も二次会で良くお邪魔しました。福井ホテルの向かい側のビル1階にありました。本格的なバーで、スコッチやバーボンを飲みました。お洒落なマスターは、私よりも少し年齢が上で色々と話をしました。いつも結構酔ってからからお邪魔するので、迷惑をかけたかもしれません。マスターとは札幌で飲みましょうと約束して別れましたが、残念ながら実現しませんでした。

CD“不機嫌な猫”完成しました
選曲・レッスン・アレンジ・録音・ミキシング等々、準備に1年間かかりましたが、「不機嫌な猫」完成しました。今回はお気に入りの日本の曲を、10曲カヴァーしました。年代・曲調・ジャンルもバラバラですが、すべて私のお気に入りの曲です。
以下、今回のCDのライナーノートです。
1枚1,000円で、受付で売っていますので、興味のある方は聴いてみてください。

「機嫌な猫がご機嫌に目覚める日を願って」

 前作「THE NEW STANDARD−希望−」から7年。まもなく還暦を迎えるという年齢を目前に、多米はCDの録音を決意する。「もう最後かもしれない」と彼は言う。音楽家の中でもボーカリストは声だけが武器。直接的に肉体を駆使して発せられる“生身の音”には、その場に存在する歌い手のいっさいが宿る。歌い手は“生身”をさらけ出すが故に常に自覚的であり、声質や音域の衰えなど誰よりも厳しい批評家となるのだろう。「最後かも…」との発言に、そんなストイックな心境が垣間見える。
 しかし、生身の音とは何か。音楽に感動を覚えるのは、充実期を迎えた音楽家の優れた演奏によるものだけではない。破滅的な人生を丸ごとさらけ出すビリー・ホリデイのしゃがれた歌声に魂を震わせることもあれば、バスクラから発せられる晩年のエリック・ドルフィーの悲鳴に打ちのめされることもあるだろう。いや、私はそれどころか、名もない老人のトゥバラーマや建物から漏れ聞こえてくる子供たちの合唱に成す術もなく立ち尽くし、落涙したことさえある。音楽に感動する刹那とは、根源的には演奏家と聴き手との間に生じる説明不能のエモーションとしか言いようがなく、それこそが言語を介さない音楽の本質なのだと思う。
 多米はこうも語っている。「音域が狭くてもいいから、さらりと歌いたい」。年齢を重ねることでしかわからない自分だけの境地。彼の本当の思いはわかりようもないが、“さらり”とは単純に力を抜くとの意味ではないだろう。経験を重ね、力を尽くしてこそ見えてくる歌い様というものがあるのだと思う。元々「夢見る頃を過ぎても」と名付けられたこのアルバムには、そんな多米の思いが反映されている。そして、ここからさらに見える風景とは…。この録音はそのための旅の始まりを告げる分岐点と私には思えてしかたがない。夢みる頃を過ぎたとしても、それは見果てぬ夢ではないのだ。「grumpy cat 不機嫌な猫」がご機嫌に目覚める日はいつ訪れるか─。
 本作に収録された曲は60年代の世界的ヒット曲「上を向いて歩こう」から90年代のJポップスまで極めて多彩だ。多米が昔から好んだ歌ばかりではなく、EGO-WRAPPIN'やORIGINAL LOVEなど他人に勧められた曲もセレクトしたといい、チャレンジする心意気がうかがえてくる。彼が今回の録音で大切にしたことは、余白を生み、歌詞を伝えることでもあるという。果たしてどう挑戦したかは聴いてからのお楽しみだ。ただ言っておきたいのは、いずれの曲においても慈しむように詩を紡ぐ姿勢が貫かれ、アルバム全体に艶やかな統一感を与えているということだ。
 アルバムのバックメンバーには、多米と同世代にあたる安斉亨(ピアノ・シンセ)、大山淳(ドラムス)、中堅として活躍中の鷹橋伸司(ギター)、木ノ内伸子(ベース)が参加し、安斉は全曲のアレンジを担当。さらにベイカーショップブギーのホーンセクションを務めた西岡俊明(トランペット)、コーラスに箭原顕、MIZUHO、松田宮佳が加わった。いずれも第一線で活躍するミュージシャンや札幌の音楽シーンの要を務める人物であり、酸いも甘いも噛み分ける腕利きたちが多米の思いを汲んでサポートを行っている。

1.上を向いて歩こう
 作詞・永六輔、作曲・中村八大、歌・坂本九、いわゆる「六・八・九トリオ」の世界的ヒット曲。坂本九の初披露は1961年のことだった。海外も含めて数多くの歌手がカバーしてきたが、外国語であってもニュアンスが伝わってくるようなメロディに心を奪われる。メランコリーな気分と明日への希望が絶妙なバランスを保ち、一歩を踏み出していくかのような多米の歌唱。今こそ、なお歌い継がれてほしい名曲だ。
2. 接吻 KISS
 田島貴男(ORIGINAL LOVE)のヒット曲。テレビドラマ「大人のキス」の主題歌として作曲された。田島はロックからジャズ、ソウルなど大変な音楽的教養の持ち主とみるが、この曲はグルーヴ感のあるラヴ・ソングとして完成度も高い。男性的でパワフルな歌声も田島の魅力で、意外にも多米は「歌ってみたらはまってしまった」と語っている。自身から遠いものを選択する妙が生む、活力とメリハリ。ギターソロを筆頭に、バックメンバーも躍動している。
3. 街の灯り
 知る人ぞ知るテレビドラマ「時間ですよ」の劇中歌。1973年のヒット曲で、作詞・阿久悠、作曲・浜圭介は八代亜紀「舟唄」のゴールデンコンビでもある。もちろん演歌ではなく、堺にあて書きしたと思われるスローバラードで、ソフィスティケートされた声質が多米にもフィットし、ぐっと盛り上がるサビが心地よく響く。何より詩がいい。息でくもる窓に書いた君の名の向こうに浮かび始める街の灯り─。静かに希望の灯をともす心情を多米は情感を込めて語りかけている。
4. 夢で逢えたら
 今でこそ作詞・作曲、大滝詠一のヒット曲として知られるが、90年代にラッツ&スターが歌うまでなかなか陽の目を見ることがなかった。男性ボーカルで初めて当たった驚きを大滝自身が語っている。ここでコーラスが加わり気分を一新、ハスキーな多米の歌声にまだ見ぬこの曲の魅力を感じさせる。それにしても大瀧詠一が亡くなってから5年。「まだまだ過小評価の人」と多米はリスペクトを寄せている。
5. 悲しい色やね
 1982年にリリースされた上田正樹のヒット曲。ある男女の別れが、女性の視点から描かれる。「泣いたらあかん…」といった、心のうごめきを描写する関西弁が痛切で、聴く者の胸に突き刺さる。洗練されたメロディと上田のハスキーボイスの組み合わせも絶妙で、一期一会の名曲といえるだろう。多米との相性も抜群で、主人公の心情に寄り添いながら、静かに熱く歌い上げている。
6. やさしいキスをして
 DREAMS COME TRUEがテレビドラマ「砂の器」の主題歌として2004年にリリース。「詩もメロディもいい」と多米が惚れ込んでの選曲。吉田美和はパワフルでテクニックも抜群の歌い手で、歌そのもののドラマチックな展開が聴く者を圧倒する魅力がある。熱烈なラヴ・ソングだが、緩急をつけ詞を旋律に溶け込ませる多米の歌いっぷりに、女と男双方の表情が浮かぶようで面白い。多米の意気を感じる歌唱だ。
7. 黄昏のビギン
 「六・八コンビ」の名曲。初リリースは1959年、水原弘のシングル盤だがなんとB面扱い。後に再評価のきっかけを作ったのは“ちあきなおみ”だった。シンセでアコーディオンを奏でる安斎の編曲が異国情緒を弾ませ素晴らしい。軽やかなノリの曲想に歌われる「初めてのキス」。聴いていてこれほど笑みがこぼれそうになる歌もそうないだろう。登場人物を慈しむかのような歌唱に、恋人たちの情景が滲む。
8. 色彩のブルース
 EGO-WRAPPIN'が2000年にリリースしたロングセラー。「ブルース」とはいえ、ジャズや昭和歌謡など多様なジャンルをミクスした音楽性がこのバンドの特徴。多米は「俺たちの世代になかった乾いたブルースで、実に新鮮」と、好んで取り上げている。バックの好サポートを得て、次第に高音に弾ける歌唱。時代と共に変遷する音楽と、時代を経ても変わらぬ魂の僥倖。
9. 遠くで汽笛を聞きながら
 アリスが上り調子にあった1976年の人気曲。「元々好んで聴いていたバンドではなかったが、今回あえて違うものを」とセレクト。今聴けばフォークからニューミュージックにまたがる音楽性がむしろ新鮮で、歌詞に強烈なパワーがある。絶望の果ての肯定を高らかに歌い上げること。多米のチャレンジが我々にも勇気を与えてくれそうだ。
10.希望という名の光
 山下達郎が2010年に映画『てぃだかんかん〜海とサンゴと小さな奇跡〜』の主題歌として書き下ろした。困難な運命にも負けまいと起き上がる人生に差し込む光。静謐な雰囲気に包まれたこの曲は東日本大震災や熊本地震の際にも数多くオンエアされ、被災者の心に寄り添ったという。そうなのだ。音楽には寄り添い、支えてくれる力があるのだ。明日への希望に祈りを込める歌と演奏に、このアルバムのハイライトが訪れる。

     2019年7月 ロンド 鎌田竜也

「久しぶりに、近況など」
 「令和」に新元号が決まりました。選考過程には色々とあったと報道されていますが、個人的には凛とした響きで、気に入っています。新天皇の即位行事などで、GWは10連休。クリニックも、28日から5月6日まで休診します。リフレッシュして、新時代に備えたいと思います。
 連休中には、CDの録音を予定しています。今まで2枚のCDは、ジャズ、ブルースのスタンダードナンバーをカヴァーしたものでしたが、今回は私のお気に入りの日本の曲を歌います。1960年代から現在まで全10曲、自分が本当に歌いたい曲を選びました。プロデュースは私の歌の師匠“箭原顕さん”、アレンジは“安斎亨さん”にお願いしました。コーラス&ブラスセクションも加えます。たぶん最後のCD制作になると思いますので、しっかりと準備を進めています。
 萩原健一さんが、亡くなりました。俳優、歌手として大活躍され、私たちの世代のカッコイイ男性スターの一人でした。「傷だらけの天使」は、子供のころによく観ていました。トマトにかぶりつき、コンビーフの缶詰を頬張るシーンは、小学生にとっても印象的でした。日本人には少ない、乾いた雰囲気の演技をする俳優さんでした。歌も独特の節回しとファルセットで、「ラストダンスは私に」「愚か者」「大阪で生まれた女」など、 “ショーケン節”が素敵でした。いしだあゆみさんとデュエットした曲もありますので、聴いてみてください。
 普段ほとんどテレビは観ませんが、「チャンネルはそのまま!」、録画して一気に観ました。佐々木倫子さんの原作は、娘に勧められて以前に読んでいました。原作と近い配役の妙と、業界ネタをふんだんに盛り込んだ設定は、非常に面白かったです。ローカル放送局の立場や姿勢、心意気も感じさせてくれた作品でした。同じ作者の「Heaven?」も、今年の7月に放送予定との情報もあり、楽しみです。
 最近読んだ本でおすすめは、「ノースライト」です。横山秀夫さんの、久しぶりの新刊です。これまでは新聞社、警察を舞台にした小説が多かったのですが、今回は設計事務所の一級建築士が主人公です。バブル後の厳しい業界の現実、設計に懸ける建築士の熱い思い、大手と弱小会社との比較、家族の在り方、仕事と家族、生い立ちの環境がその後の人生に与える影響など、読み手によっていくつものツボがあると思います。是非ご一読ください。
 4月から同居していた息子が、進学のため東京住まいとなります。娘も東京ですので、夫婦二人&猫二匹の新生活です。夫婦での会話なんか、何かあるのでしょうか・・・。猫がいてくれて、正直良かったです。リンちゃん、フーちゃん、よろしく頼みます。
 今日の昼休みは、大通公園6丁目まで散歩。桜が待ち遠しい、今日この頃です。

「9月1日」
9月1日が、18歳以下の子供の自殺が、最も多い日だ。北海道以外の多くの地域で、夏休みが終わり、新学期が始まる日。多くの子供たちが、普段の学校生活では経験できない色々な体験をし、少し日焼けし、たくましくなった顔で、久しぶりに学校に集う日だ。
 自殺者の総数は、2009年の約3万3千人をピークとし、徐々に減少。2017年には、約2万1000人となった。しかし18歳以下では、2009年が306人、2017年が357人と自殺者が増加している。毎年多くの子供たちが、自らの命を絶つ現実には、胸が痛む。
 原因として、学業不振、こじれた友人関係、進路、いじめなどが、報告されている。いずれも多くの場合は、学校内で起こる問題だ。
 大人になるというのは、周りの理不尽さと、上手に折り合いをつけ、自分自身を納得させ、生きていく事だと思う。子供の場合は、どうしても学校という、限られた世界で生きていく事だけが全てで、人生経験も乏しく、見えている視界も狭い。今の人間関係が、これからも長く続くと、錯覚してしまう場合もあると思う。

 どうしても登校できない君、どうぞ休んでください。そして、自分の居場所を探してください。家庭、フリースクール、図書館、趣味のサークルなど、どこかに受け入れてくれる場所、心休まる場所があるはずです。エネルギーが切れそうなら、安心できる場所でゆっくり充電してください。
そして、周りの大人に、SOSのサインを送ってほしい。「助けて!」「つらいよ!」小さくてもよいから、声を上げてください。
一生懸命話を聞き、力になりますよ。大人は、君たちが思っている以上に、つらい世の中を渡って行くための、術や知識を持っているのだから。
 今のつらい状況が一生続くわけでもないし、時間が解決してくれることもあります。君自身の事、良さを分かってくれる人たちが、絶対います。
うつむき加減の顔を少しだけ上げ、背筋を伸ばしてみましょう。君の事を愛し、必要としている人たちが、沢山いますよ。
一番大事なのは、君自身が、この世界で存在し続ける事なのだから。