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激動の医者生活10年-どん底の癌患者を経て

−激動の医者生活10年-どん底の癌患者を経て−vol.1:日本医事新報コラムより抜粋

一昨年の12月20日に兄から突然の電話がありました。父の具合がおかしい、お前、医者だから診てやれと言われ診察・治療にあたりました。結果的には、末期癌の状態でした、弱音を吐かず、最後まで私の尊敬する父でした。最期を看取った時、涙で時計がボヤケながらも、最後の脈を確認しました。入院中の父は「俺の病気も治せないのか、情け無いなー!医者というのはこんなもんか!」と何度も言われた言葉を、医療の限界を認識した上で大切にしまっております。
私は、医師になっての入局先は、埼玉医科大学第一外科。カラードップラーを開発した尾本良三教授の外科医局でした。心臓血管外科が看板で、消化器一般外科、乳腺外科、移植外科、呼吸器外科、要するに全てを網羅するマンモス外科でした。学生時代に埼玉医大って何で有名か、と問われたら、まず心臓が看板だって胸を張って答えていました。その科を臨床実習で廻った時には上から下まで真っ白な白衣集団が何十人もそろって回診している光景は異常でしたが、カンファレンスや教授回診の厳しさ、患者さんへの情熱、抱えているベッド数や、手術件数など他のどの科と比べても抜きん出ていていました。朝はチーフレジデントの回診が6時半開始、教授もそろっての毎朝のカンファレンスが7時半開始で夜間はほとんどのレジデントが泊り込み、当直室は寝る場もなく、あふれた研修医はICUの床で寝ていました。ここは異常だと思いましたけど、ここに入って体を張って頑張れば、絶対に何とかなる、それよりもひたむきに患者と向き合っている先生たちが輝いて、ものすごく格好よく見えました。

−激動の医者生活10年-どん底の癌患者を経て−vol.2:日本医事新報コラムより抜粋

第一外科の先生が相変わらず走り回っているのを見て、これは内科じゃなく、自分の手や足をフルに使った外科系だな、内科は自分にとっては駄目だなと思いました。次に最後まで悩んだのが産婦人科です。内科的、外科的、精神科的、そして何よりも病院の中で唯一めでたいお産がある科。でも、最後に決め手となったのは、外科医である私の部活動の先輩からの一言です。「齊藤、医療はどこまで技術やすばらしい薬があっても、治療には限界がある。治らないこともある。最後は心だぞ。お前はどんなに患者と向き合って、一生懸命になってもお前が男である以上、最後は出産もしていない生理も経験したことがない人間は患者の気持ちがわからないと言われてしまう。だから、経験者のほうがずっと説得力があるから、産婦人科はやめたほうがいい」といわれ、外科に進みました。
現在、私の所属する小山教授に国際学会に帯同させていただいた時のエピソードです。小山教授、篠塚教授には、海外の学会には何度も連れて行ってもらいました。シカゴ、ボストン、トロント、シンガポール、ホンコン、スペイン。ホンコンの学会では、今の主任教授の小山助教授のかばん持ちで帯同させてもらいました。百万ドルの夜景を見ながら小山先生にもらった言葉があります。’齊藤。所詮、埼玉医大は、どの科だってクラブ活動でいえば5部とか6部とかの底辺だ。だから上には上がいっぱいあるから、これからはそこを目指そう’。そして何よりも、響いた言葉は、僕が小山教授に、’先生は将来どうなりたいんですか?’と聞いたら、こう答えました。’世の中はスペシャリストを求めている時代だけど、僕はジェネラリストでありたい。要するに消化器外科医じゃなく一般外科医で、なんでも一通り切れて、広く深く追求したい。心臓も婦人かも泌尿器科も肺も…僕は一通りできるよ、経験してるよ。’といわれました。確かに小山先生の手術は早い、上手い。それでいて何でも切っている。自分はブラックジャックに幼少時からあこがれていたけど、やはりこの人はこんなことを考えていたのか、と改めて尊敬の念を抱きました。時代錯誤かもしれませんが、もちろん今も、僕はその言葉通り、何でもできる医者を目指しています。

−激動の医者生活10年-どん底の癌患者を経て−vol.3:日本医事新報コラムより抜粋

医者になって4年目に、循環器内科の病院に出向きました。医者が実働は二人で、一年で心カテ360件、PTCA130件をやりました。そのときに僕は独身でしたから、一生懸命陰部のプロテクターはやっていましたが、頚部のプロテクターはしませんでした。それも関係していたのでしょう、12月頃に、どうも体がだるくて採血をしたら、ヘモグロビンが11.0。便潜血反応がマイナスだったので、日常の忙しさに流されて、経過観察していました。スタッフが体調を崩したとき、「医療従事者なのだから自己管理は大切だよな」と大声で言っているときにハッとなりました。自分も実は右の頚部のリンパ節が去年の11月頃から腫れている。慌てて小山教授のところに行き、その事実を伝え、触診してもらったところ、「確かに腫れているからまず頚部エコーをやろう」といわれました。その結果は、嫌な予感が的中し、甲状腺癌でした。
すぐに緊急入院となり、すぐさま穿刺吸引細胞診やら、いろんな全身検索が始まり、5月23日に甲状腺亜全摘術を行いました。慣れた病院、慣れた医療スタッフ、何よりも執刀は尊敬する小山教授、主治医は学生時代からの親友で、不安はまったくありませんでした。ただ、「癌だ」と告知された時の気持ちは複雑で、何で自分が癌にならなきゃいけないのだろう、何か悪いことしたかな、そして何よりも、全員がいつかは体験する“死”という現実を初めて意識しました。残りの人生で何をやろうかな、両親に悪いな、心配かけたな、それと、何よりすごく怖かったです。何が怖いかわからない、手術が怖いのか死が怖いのか...。術後経過は非常に良好で、順調に退院できました。体が仕事に傾き、退院後3日で外勤の当直に行くなど、体力を戻すのに必死でした。
ただ、甲状腺というのは、機能が落ちると本当に全身がだるく、薬のコントロールが付くまでは大変でした。

−激動の医者生活10年-どん底の癌患者を経て−vol.4:日本医事新報コラムより抜粋

この手術を経験し、これを糧に生きていくためには、自分が目指した心臓外科よりも、癌を専門とした消化器一般外科がいいだろうと、このあと正式に医局が細分化された際、当然のように消化器一般外科に入局し現在に至っています。癌の患者の気持ちは、経験している以上わかっているつもりでしたが、やはり患者さんの気持ちのコントロールは難しいことを未だに感じます。ただ、僕が産婦人をやめた理由のように、ある患者さんから、「先生は所詮癌になっていない若い方だから、私の気持ちなどわからない」といわれたことが今まで何件かあります。患者と向き合い、話した上でもわかり合えなかったときには、実体験を話すと、本当に親友のように触れ合える。患者さんって、自暴自棄になって、孤独なときが必ずあります。そんなときに時間をかけてゆっくり話し、わかりあえると、本当に自分が癌患者になっていて良かったなと思います。いまは、首に少し傷が残っています。この傷も残っているからこそ、つらかった日々を思い出し歯を食いしばれるのですが、傷などないほうがいいに決まっています。だから、今はどんな患者の手術に対しても、埋没縫合をして最大限の美容を追求しています。
病気から3年後に、努力の成果で埼玉医大の消化器一般外科チーフレジデントになりました。今はご存知のように、社会問題になるほどの医師不足で、外科も当然のように新人が入局して来ません。そういった環境下でのチーフレジデントは理想とした大きいチームを率いてのリーダーではありませんでしたが、その分自分が動いて、何とか一年間病棟主任を全うしました。平均在院日数を初めて10日を切った事、直腸大腸切除後の翌朝から常食がルーチーンにできたことが実績でしょうか。何しろ年間500件を超える手術に参加できたことは、何よりの財産であります。
現在は、さいたま市の丸山記念総合病院に勤務し、地域基幹病院の第一線で精一杯地域医療に従事しています。父が闘病生活させてもらった病院で、「駄目息子をよろしく」と、尊敬する理事長に父が遺言を残していきました。第二の父と思われる理事長の下、感謝の気持ちを持ちながら、日々頑張っております。

2007年2月:日本医事新報コラムより抜粋
武蔵村山さいとうクリニック 院長 齊藤 直人
2006年に日本医事新報に掲載された齊藤院長のコラムです。ぜひご覧ください。
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