ネパール奮戦記

第1〜5巻

ネパール奮戦記

第6〜10巻

ネパール奮戦記

第11〜15巻

ネパール奮戦記

第16〜18巻

交流会1

ふれあいを大切に。患者さんと企画を考えて実行しています。その1。

交流会2

ふれあいを大切に。患者さんと企画を考えて実行しています。その2。

交流会3

ふれあいを大切に。患者さんと企画を考えて実行しています。その3。

ネパール奮戦記

ネパール奮戦記(第11巻) 

 出発の約1年前にこの話が持ち上がりました。以前、別のボランティアに参加した時の話の中で、世界人口の約3分の2が発展途上国の人であるから、自分たち先進国の人間が2人以上の人を手助けしてあげるという気持ちで、何かできることがないか考えてみると、比較的楽に実行できますよ。という話に、自分に何ができるのかを考えてみると、やはりせっかく医師になったのだから世界に出て、もっと困っている人のためになりたい、1人でも多くの人のために役に立ちたいという気持ちが強くなりました。しかし、夢は夢としてと現実の状況を見渡してもギャップは大きすぎました。行ってみたいが現実のものとは生り得ないような夢の話を妻にしてみたら、最初は冗談のように受け取られ、すごいねと、軽く話は終わりました。しかし徐々に自分の中では夢が広がり、医師になったら一度はこういうことをしてみたいと、学生のころから思っていたことも思い出し、さらに急激に高まる鼓動を自分でも抑えることができないぐらいイメージが膨らみ、2度3度と妻に話しているうちに本気で考えていることに妻は冷静さを失うようになりました。毎晩子供が寝静まった頃になると、自然と口論が始まってしまいました。残された家族の生活、帰国後の仕事や生活、自分の身の安全などなんの保証もなく、問題点は山積みでした。そういう月日が半年ぐらい続いたのでしょうか。離婚の話もされました。毎日毎日なのでさすがに4歳の娘も気づき、夜中に起きてきて、泣いている妻に近づいて「ママ、泣かないで」と言い、次に自分のそばに来て「ママと仲直りして」と一生懸命、二人を仲直りさせようと気遣ってくれたこともありました。しかし、その後も気持ちは大きく揺れるものの、結局は夢を捨てきれず決意した自分は、やっぱり非情だったのでしょうか・・・そして、妻もあきらめたのでしょうか。今でも、あの時の妻の心境は聞けず、触れることなく現在に至っています。

ネパール奮戦記(第12巻) 

 ネパールに来てはや3ヶ月の苦労の末、ようやく入山許可書を取得できることになりました。ここまで来て挫折しかけていた気持ちが、一気に開け放たれたように軽くなり、いよいよかと活力が沸いてきました。
 登山以外の目的で入山するのは、他国人としては初めてなので、現地の警察官の付き添いの下での入山でした。なにわともあれ大きく前進することができ、にわかに準備で忙しくなりました。郵送ヘリコプターで運びきれなかった荷物をカッチャル(ロバの小隊)で荷揚げすることになりました。荷物のチェックやパッキング、そしてロバへのくくり付けをし、およそ20頭のロバの小隊となりました。圧巻でした。木製のベッドがあり、これをロバには背負わせるのは無理なので残していくのかと思いきや、シェルパがかついで持っていくと言い出し、しかも2つのベッドを1人で・・・道も平らな道じゃないし、川を渡ったり、崖っぷちを歩いたりするというのに、登山をする自分から見ても無茶だと思いましたが、結局彼らは全然平気、大丈夫と笑顔で答えるのです。やはり小さい頃から山で生活している彼らは山という感覚ではなく、普段の道ぐらいの感じのようです。それもそのはず僕たちが登山靴で歩いている様なところを、赤ん坊を抱っこして歩いていたり、裸足や破れたくつで歩いている子供を何度か見かけていたことを思い出しました。僕も昔からアウトドアが好きで、どこでも寝れたりするので、特技のように友人からは言われたりしていましたが、彼らはすごい!アレが本当の野生児って感じです。足元にも及ばないって感じでした。

ネパール奮戦記(第13巻) 

 いよいよ、診療所開設の目的地であるガミに向けて出発です。ガミはここジョムソンからでも、通常のトレッキングコースとして往復で約10日、山岳地帯を歩かなければならないようなところで、ネパールの中でも秘境といわれるムスタンの最奥に位置します。ムスタンは十数年前まで鎖国状態の独立した王国であったため、ネパールの中でも特に取り残された地区で、ボランティアの外国人もほとんど入っていない所です。聞くところによると、医師が入るのは私が初めてとか、いまだ祈祷師による呪いでの治療や鳥葬(死体をバラバラにしてハゲタカに餌として捧げる葬儀)が行われているというようなところです。自分は外国人としても初めての長期滞在者になりリーズンオフィサー(地元警察官)の同行のもとでの出発となりました。未知の世界への出発です。このような異文化の中ではたしてやっていけるのか不安は大きかったですが、自分の夢がかない、医師として全力を尽くし、地元の文化に逆らわず、地元民の役に立てるようにと考えていたことを覚えています。広大なカリガンダキ河は延々と続きこれを溯上していきます。橋など無く何度も川を渡り、時には頭に荷物を乗せ腰ぐらいまで水につかり流されないように踏ん張って渡ります。カッチャルのロバも足を滑らせ溺れることもあるそうです。河原には転落したり溺れたりしたロバの死骸をハゲタカが食い散らかした光景が見られました。初日から約8時間歩き、いくつかの小さな村を通過しました。村民は数人から数十人程度で自給自足の素朴な生活をしていました。畑にはこんな高地なのに何を作っているのかと聞くと麦、ジャガイモ、そばといった結構聞きなれたものでした。

ネパール奮戦記(第14巻) 

 本当の秘境とは、こういうものかと驚かされるばかりの景観でした、道なき道を延々と歩き、一日約8時間、毎日歩き続けました。途中では川の中を歩いたり、岩だらけのガレ場を登ったり、断崖絶壁をくり貫いただけの道があったりで緊張の連続でした。しかし驚くことに、地元の人は子供も老人も裸足でその道をスタスタと歩いており、究極は赤ちゃんを抱っこしたお母さんが歩いてるのを見たときは、自分の目を疑いました。自分は登山靴を履き、それなりの山屋の格好をしているというのに・・・これも生活環境の違いなんでしょう。彼らにとっては云わば、下界(街)に降りる唯一の生活道路ですから、通い慣れた道なのでしょう。
宿泊地は一様ホテルの名称が付いてはいるものの、石を積み上げた上に枝葉が置かれた屋根の家でした。多くの家屋は家畜(ヤギが多いですが)が一階か、すぐ隣に一緒に寝ているような状況で、とても臭いました。食事はダルバート(ネパールカレー)、毎日どこに行っても毎食とも同じです。おそらく日本人なら皆が口を揃えて、「まずい」というでしょう。ダルスープにおいては豆の青くさい臭いがそのままで、最初は口に運ぶのも苦痛でしたが、他に食べるものもなく慣れてきました。食べているうちに各家庭の味が違うように、宿によって違いがありました。しばらくすると、おいしく感じるようになり、おかわりまでするようになりました。帰国して日本で初めてダルバートを食べてみて、かなり味が違いました。しかし自分はあの現地の味が懐かしく、日本のダルバートでは物足らないような感じです。
それにしても、日本はつくずく贅沢だと思いました。毎食違うものを食べるのが当たり前なんですからね。

ネパール奮戦記(第15巻) 

ジョムソンを出発して2日目、朝6時には朝食を済ませ歩き始める。といっても電気のない生活は、日が昇ると起きて、日が沈むと寝るという、原始的な生活リズムなので朝6時にはたいてい何か行動を起こしていました。そして、もしかしたら今日、ガミに着くのかと思えば、ソワソワしてゆっくりも眠れない心境でした。日本ではガミの事をいくら調べても、情報も写真もなく、未知の世界でした。
時間を追い歩くごとに奥地に入り、光景もさらに嶮しくよりチベット的になってきます。何もない土と岩だけの世界ですが、その自然の織り成す造形が今までに見たことのない、広大な空間でした。それを見ているだけで、背筋の震えるのがわかりました。休憩をするのも忘れ、気が付くとガミ近くまで来ており予定以上に歩き、約10時間歩き続けた末、ガミ村が茶色一色の景色の中に、緑のオアシスのように浮き上がるように見えてきました。
こんな奥地にまだこんな大きな村があったんです。これを見れただけでも感動でした。
次第に緑が近づくと、麦や菜の花を栽培している畑でした。他、年間を通して、ジャガイモ、ソバといった、貧相な土壌でも育ちやすい作物が栽培されているようで、ここでは食材もこれぐらいに限られています。後に私も農耕を手伝い、少し農業にも詳しくなりました。夕方、暮れかけの頃に到着、診療所はどこ?と思いましたが、とりあえず、オフィスといわれる建物に案内され、そこで生活することになりました。オフィスといっても壁も床も土、屋根は木の枝、電気はなく、もうすでに真っ暗、診療所を手伝ってくれるという現地の人らと小さなアルコールランプひとつを囲み、顔もよく見えない暗さの部屋で、夕食はいつものダルバート、床に座って手で食べ始める、自分もお腹もすいていて思わず、手で食べていました。暗くて手の汚いのもわからないままに・・・。
お腹も落ち着くと、ここであらためて自分が唯一の日本人ということに実感しました。少し異様な感じで不安になりました。日本語どころか、英語もまったく通じず、ここまで来るとネパール語も全く通じない。いったいどのようにしてコミュニケーションをとればいいのか、しかしそんな不安も次の瞬間には消えていました。後で考えるとあれは自己紹介のようなものだったのか、一人づつが何かをしゃべり、踊りのような、いわゆる一発芸のようなことをして、その場は笑い通しで、知らない間に時間が過ぎていました。彼らは本当に無邪気で、一生懸命僕を楽しませようとしてくれていたようで、何より、あたたかい歓迎を受けたようでした。